はじめようと思ったブログが停滞しまくるのは、
よくあることだと思いますが、なかなか筆を執れない今日この頃です。
というか、もう3ヶ月も経ってしまった。
主に展覧会のレビューを書くつもりで作ったブログですが、ほとんど展覧会を見ていません。見ていません、じゃなくて、見なきゃだめなんだけど、それほど見る動機も持ちあわせていないのが、事実です。アートシーンへの関心を占める割合が少し低くなっているのだと思います。アートへの関心はもちろん健在です。
職場から帰ってから、作品制作の時間をとるようにして
僕のアートは僕に何が出来るかな、などと考えたりもしてはいます。
展覧会を見ても、生産的とは思えない批判が先立ってしまうこともあり、
自分やアートシーンに、なんだか不安を感じることもあります。
比較的、名の知られていないの抽象画家に
エネルギーをいただくことは多いような気がします。
久々に自分のブログを開いたので、
読む方も居らっしゃらないかもしれませんが、
記しておきます。
ブログをやめちゃおう、という考えはないかな!
2010年9月14日火曜日
2010年5月25日火曜日
欠損と表現、決別と未来
在学中の映像を半年あまり教わった、大学の非常勤講師のツイートが、気になってしばらくそのことに思いを巡らせました。
「なんで作品作るんだよ?満たされてたら作品つくんないだろ。
自分の欠損をどれだけ深く見つめられるか?それが説得力だろ。」
これは、僕がたまたま見かけたツイートであり、僕に宛てたものではありません。
ましてや僕が読んだとも先生は知らないかもしれない...
されど、これを読んで僕が今制作に真に打ち込めないことについて、考えさせられた。
今自分は、殆ど満たされてるなー、と思ったりすることがあります。
もちろん、藝術について考えたり、言葉について考えているときは、
やはり、まだまだまだまだ...と思ったりするのです。
人生のスパンでものを考えたら、満たされることがないのは自明かもしれない。
藝術や言葉も、満たせれることがないのも、満たされることがないのは、やはり自明かもしれない。
けど、その「満たされない」のは自明であり、ハングリーというよりは諦観であって、
作品をつくるモティベーションにはつながりにくいのです。
自分の欠損は何か。自分の欠損は何か。自分の欠損は何か。
ここがスタート地点なの。タナトスから生と藝術は謳歌されるはず。。。。
ところで、僕の部屋のバルコニには土が入った鉢があって、
そこには、どこからともなく雑草が来ては育っています。
ここ2週間くらいで一気にハルジオン?が、90cmくらいに育ちました。
その間、綿毛も実らせました。綿毛もすっかり飛んだな、と思って、
さっき見てみたら、少し元気がなさそうでした。
僕はその植物にさっぱり手を入れていないし、見ているだけだけど、
適度な降雨も手伝ってか、グングンたくましく大きくなりました。
けど、種を飛ばした途端、なんだか覇気を感じないのです。
まだ葉も茎も青々としています。けど、そんな気がするのです。
これは、この植物が役目を果たしたからなのでしょうか。
ハングリーじゃなくなったからでしょうか。
ハングリーさをどう維持するか、考えるのは人間だけでしょう。
人間のひとりである僕に、唯一のこされたハングリーさがあるとしたら、
「もっといいモノをつくりたい」と、率直にそう思うことです。
同時に、それが作れないことが、が当にそれです。
なんだか整理がつきました。
この文章を前日には、とっておいた展覧会のDMやフライヤを大量に棄てました。
高校大学時代にたくさん、社会人になってから少し。とにかく見まくった展覧会。
(観た展覧会だけではなく、見ようと思った展示のフライヤーも多くあるのですが...)
これは僕が歩んだ痕跡を絶つような、大袈裟ですが、そんな気分になりました。
棄てるのは、特に意味はありません。
強いて言えば、持っていることに意味が無いからというのが最大の理由です。
僕が持っていて、それだけで、価値や意味のあるものなんて、ないな。と心底思います。
逆に意味のあることは何かと言うと、
作品つくったり、語ったり、何か発信したり。
高校生のとき当たり前に、未熟ながらも小気味良くできていたはずのこと。
これをやめないことだけに、価値と意味があると信じています。
「なんで作品作るんだよ?満たされてたら作品つくんないだろ。
自分の欠損をどれだけ深く見つめられるか?それが説得力だろ。」
これは、僕がたまたま見かけたツイートであり、僕に宛てたものではありません。
ましてや僕が読んだとも先生は知らないかもしれない...
されど、これを読んで僕が今制作に真に打ち込めないことについて、考えさせられた。
今自分は、殆ど満たされてるなー、と思ったりすることがあります。
もちろん、藝術について考えたり、言葉について考えているときは、
やはり、まだまだまだまだ...と思ったりするのです。
人生のスパンでものを考えたら、満たされることがないのは自明かもしれない。
藝術や言葉も、満たせれることがないのも、満たされることがないのは、やはり自明かもしれない。
けど、その「満たされない」のは自明であり、ハングリーというよりは諦観であって、
作品をつくるモティベーションにはつながりにくいのです。
自分の欠損は何か。自分の欠損は何か。自分の欠損は何か。
ここがスタート地点なの。タナトスから生と藝術は謳歌されるはず。。。。
ところで、僕の部屋のバルコニには土が入った鉢があって、
そこには、どこからともなく雑草が来ては育っています。
ここ2週間くらいで一気にハルジオン?が、90cmくらいに育ちました。
その間、綿毛も実らせました。綿毛もすっかり飛んだな、と思って、
さっき見てみたら、少し元気がなさそうでした。
僕はその植物にさっぱり手を入れていないし、見ているだけだけど、
適度な降雨も手伝ってか、グングンたくましく大きくなりました。
けど、種を飛ばした途端、なんだか覇気を感じないのです。
まだ葉も茎も青々としています。けど、そんな気がするのです。
これは、この植物が役目を果たしたからなのでしょうか。
ハングリーじゃなくなったからでしょうか。
ハングリーさをどう維持するか、考えるのは人間だけでしょう。
人間のひとりである僕に、唯一のこされたハングリーさがあるとしたら、
「もっといいモノをつくりたい」と、率直にそう思うことです。
同時に、それが作れないことが、が当にそれです。
なんだか整理がつきました。
この文章を前日には、とっておいた展覧会のDMやフライヤを大量に棄てました。
高校大学時代にたくさん、社会人になってから少し。とにかく見まくった展覧会。
(観た展覧会だけではなく、見ようと思った展示のフライヤーも多くあるのですが...)
これは僕が歩んだ痕跡を絶つような、大袈裟ですが、そんな気分になりました。
棄てるのは、特に意味はありません。
強いて言えば、持っていることに意味が無いからというのが最大の理由です。
僕が持っていて、それだけで、価値や意味のあるものなんて、ないな。と心底思います。
逆に意味のあることは何かと言うと、
作品つくったり、語ったり、何か発信したり。
高校生のとき当たり前に、未熟ながらも小気味良くできていたはずのこと。
これをやめないことだけに、価値と意味があると信じています。
2010年5月3日月曜日
2010年3月20日土曜日
それでは、はじめます。
制作活動、批評活動、芸術にかかわる何かをしていきたいと考えている者です。
緩やかながら、ある種緊張感をもって、芸術にかかわるために、
ネットの拠点を新しくつくりたいと考え、ブログをはじめる所存です。
動詞か形容詞的な感覚を取り入れたく、送り仮名をふって、「光」ではなく、「光り」としています。
緩やかながら、ある種緊張感をもって、芸術にかかわるために、
ネットの拠点を新しくつくりたいと考え、ブログをはじめる所存です。
「はしのかげ」と名乗ります。a.k.a.k.sahashiです。
a.k.a.は、as known as の略です。またの名をという感じ。
ブログの名前は、「藝術と光り」としました。
英訳するなら art and radiance(ラディエンス)です。
いつか開きたいお店の屋号であり、
英訳するなら art and radiance(ラディエンス)です。
いつか開きたいお店の屋号であり、
何か企画したり文章を書いたりするときの、トレードマークになるかもしれない。
この言葉は、僕のお守りなんだ。
art and radianceの和訳が「藝術と光り」なのかもしれないけど、
日本人の言語感覚に忠実に、日本語の名前を、正とします。
日本人の言語感覚に忠実に、日本語の名前を、正とします。
例えて言うなら、僕の出た学科には、
先端芸術表現科という言う普通の方と、
Department of inter media artという英訳がありますが、その感覚に似ている気がします。
ダブルスタンダードではないんだけど、必ずしも同義反復はしてもいない。
「光り」とは、僕にとって、「心や思考を照らす言葉」、というニュアンスがあります。
上記の文の「」内の2者は、交換可能です。言葉ではなく、信号というべきかもしれない。
上記の文の「」内の2者は、交換可能です。言葉ではなく、信号というべきかもしれない。
動詞か形容詞的な感覚を取り入れたく、送り仮名をふって、「光」ではなく、「光り」としています。
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