在学中の映像を半年あまり教わった、大学の非常勤講師のツイートが、気になってしばらくそのことに思いを巡らせました。
「なんで作品作るんだよ?満たされてたら作品つくんないだろ。
自分の欠損をどれだけ深く見つめられるか?それが説得力だろ。」
これは、僕がたまたま見かけたツイートであり、僕に宛てたものではありません。
ましてや僕が読んだとも先生は知らないかもしれない...
されど、これを読んで僕が今制作に真に打ち込めないことについて、考えさせられた。
今自分は、殆ど満たされてるなー、と思ったりすることがあります。
もちろん、藝術について考えたり、言葉について考えているときは、
やはり、まだまだまだまだ...と思ったりするのです。
人生のスパンでものを考えたら、満たされることがないのは自明かもしれない。
藝術や言葉も、満たせれることがないのも、満たされることがないのは、やはり自明かもしれない。
けど、その「満たされない」のは自明であり、ハングリーというよりは諦観であって、
作品をつくるモティベーションにはつながりにくいのです。
自分の欠損は何か。自分の欠損は何か。自分の欠損は何か。
ここがスタート地点なの。タナトスから生と藝術は謳歌されるはず。。。。
ところで、僕の部屋のバルコニには土が入った鉢があって、
そこには、どこからともなく雑草が来ては育っています。
ここ2週間くらいで一気にハルジオン?が、90cmくらいに育ちました。
その間、綿毛も実らせました。綿毛もすっかり飛んだな、と思って、
さっき見てみたら、少し元気がなさそうでした。
僕はその植物にさっぱり手を入れていないし、見ているだけだけど、
適度な降雨も手伝ってか、グングンたくましく大きくなりました。
けど、種を飛ばした途端、なんだか覇気を感じないのです。
まだ葉も茎も青々としています。けど、そんな気がするのです。
これは、この植物が役目を果たしたからなのでしょうか。
ハングリーじゃなくなったからでしょうか。
ハングリーさをどう維持するか、考えるのは人間だけでしょう。
人間のひとりである僕に、唯一のこされたハングリーさがあるとしたら、
「もっといいモノをつくりたい」と、率直にそう思うことです。
同時に、それが作れないことが、が当にそれです。
なんだか整理がつきました。
この文章を前日には、とっておいた展覧会のDMやフライヤを大量に棄てました。
高校大学時代にたくさん、社会人になってから少し。とにかく見まくった展覧会。
(観た展覧会だけではなく、見ようと思った展示のフライヤーも多くあるのですが...)
これは僕が歩んだ痕跡を絶つような、大袈裟ですが、そんな気分になりました。
棄てるのは、特に意味はありません。
強いて言えば、持っていることに意味が無いからというのが最大の理由です。
僕が持っていて、それだけで、価値や意味のあるものなんて、ないな。と心底思います。
逆に意味のあることは何かと言うと、
作品つくったり、語ったり、何か発信したり。
高校生のとき当たり前に、未熟ながらも小気味良くできていたはずのこと。
これをやめないことだけに、価値と意味があると信じています。
2010年5月25日火曜日
登録:
コメント (Atom)





